河童は、日田・玖珠地方では川太郎、カワゾーと呼ばれ
三隈川、花月川、有田川、玖珠川などに相当住みついていたといわれ
河童に関する踊りや話がいろいろ言い伝えられています。

河童踊り

日田市三宮町に伝わる河童踊りは、数百年の伝統をもつ特殊の神事で、民俗的にも貴重な資料として県の無形文化財に指定されています。

この神事は、神意と慰め、無病息災、豊穣を祈るために催されるもので、有名な有田郷の千人踊り、(須の原踊り)の一連のものです。

10月仲秋の夜、大行事神社前の庭で行なわれ、夕暮ともなれば、采振り、棒使い、コモラシ(子ども河童)、楽人、氏子等三十数名が、近くの堂山の仮屋にあつまり、豊穣の田んぼ道を、たいまつをかかげながら、行列をつくって神社まで行進します。

神前では裃をつけて威儀を正した五色の御幣を持った長老の指図によって、太鼓、横笛、鉦、ビジャシャラ等の、いとものんぴりした楽の音につれて、まず棒使いの青年が棒踊りを行ない、つぎに河童(少年が扮する)4人が、赤褐色の衣袴をつけ、シュロの皮でつくったお皿を頭にいただき、2枚のむしろの四隅にたって、御幣をかついで踊ったり、腹の上の小太鼓をたたいて、とんだり、はねたり、とんぼ返りをして踊ります

この踊りは、そのむかし、大原八幅宮の神馬が石松川を渡ろうとしたとき、石松川に住む河童が神馬にいたずらをしかけたので、神馬が怒り、河童をしばりつけて引き回しました,河童は驚いて、踊りを奉納するから許してもらいたいとお託ぴしたのが始まりだといい伝えられています。



河童おどりの起こり

昔々、大原八幡宮さまが元宮にいらっしゃつた頃のこと。
その頃はまだ御輿がなかったので、白馬の背に一丈あまりの大御幣を立て、神様はその御幣にのりうつってお出ましになっていた。

ある時、八幡さまが石松村をさして、花月川の山渡瀬を渡ろうとされると、川に住んでいた河童どもが、わらわらと馬にとりついて来た。
河童は、馬と遊ぶのが大好きなので、神馬とも知らずに、深い淵に引きずり込んで遊ぼうとしたのである。

ところが相手は神馬、身をふるって河童どもを振りほどくと、片っ端から鋭いひずめにかけて川原へ蹴り上げた。
河童は逃げる間もなく、さんざん蹴られ、ふまれ、息も絶え絶えになってしまった。

八幡さまはこれを見て、白馬を止め、河童を助けておやりになった。命を救われた河童どもは、うれしさのあまり、手をふり足を振ふり、踊りを踊って、八幡さまを見送りした。

これが今でも三ノ宮の大行事神社に伝わる河童踊り(磐戸神楽)の起こりということである。



 河童のはなし

 小川原のせというところに、とみへいじさんちいうひとがおったげな。
ある日、とみへいじいさんが用事をすませち村はずれん橋の上までくると

「とみへいじいさん」ち、だれか声をかけちきた。

あたりをきょろきょろみまわしちんだれもおらん。
とみへいじさんち 声は下んほうから聞こえちくる。
じいさんがひょいと下を見ると、川ん中からにゅっと顔をだしたカッパが、
にーたっと笑うてじいさんを見上げちょる。
じいさんがたまがってにぐうとすると

「すもうとろうぇ」ち、いうげな。 
すもうなんのとったら、川ん中ににひきこまれちおもうち、

「すこうなんのたったこつがねえき、つまらんつまらん」ち、
なんべんもいうけど、

「すもうとろうぇ」ち、
いうちカッパはなかなかあきらめん。

じいさんが気味わるなっち走り出すと、カッパも川から上って、
べちゃべちゃ足おとたてながら,追いかけてくる。

日は暮るるし、あたりはくろうなるし、じいさんは気が狂うたごっなって
命からがら,家ににげ帰った。
ところが、カッパはじいさんの家までついてきて帰ろうとせん。

「こりゃ、どうしたもんじゃろうか」ち、
家んもんがみんなでこまっちょった。

そしたらばあさんが、
「仏様んおぶっぱんののじいさんにたべさせちゃろう」ち、いうち、
仏様にあげちょるごはんを食べさせちみた。

そしたらどうしたこつか、じいさんの目がぴかーぴかーっち光だして、
これを見たカッパは
たまがったのなんの、くるっと後ろを向いて一目散に川ににげこんだげな。

それからのち、このあたりじゃカッパが、
人の前に姿をみするちいうこつが、のうなったげな。



  河童のたたり

安永の中頃(一七七六)日田竹田村の川原町に、白糸嘉右ェ門という田舎相撲の大関がいた。 その子に正吉という十二歳になる男の子がいて、親ににて力持ちで大胆な子であった。

或る夏の日、この正吉が三隈川で泳いでいると、何者かが足のかかとをかいた。 正吉はすぐ水にもぐり水中をひっかきまわして見たが、正体をつかむことはできなかった。

ところがその晩のことである。 真夜中頃になって急に水浴がしたくてたまらないようになった。 正吉は何かとにつかれたようになり三隈川にやって来た。 着物をぬいで岩の上にかけ、水に入ろうとすると、水中からニ、三歳の子供のような妙な形をした動物が現れて、

「お前は相撲取りの子なら相撲が上手じやろう。
「おい相撲取ろうや、相撲取ろう」と呼びかけた。

正吉は、さてはこれがうわさに聞いている川太郎だなあと思った、だが大胆な力持ちの正吉は恐れもせず、さあこいと河童の川太郎と四つに組んで相撲をはじめた。

 正吉と河童は、しばらくもみあっていたが、正吉の方が力が勝っていたので、間合いをみて河童をぐいっと引きつけ、両手両足をもって頭上に高くさし上げて気合い もろとも岩の上に投げつけた。

するとまた同じような河童が現れて組みついてきた。これも岩の上に投げつけた。幾十匹とも知れない河童が次々に現れて、正吉に投げとばされて傷ついた二匹の河童を水中にかつぎこんでいった。

残りの河童は、幾重にも正吉を囲み、次々と相撲をいどんできた。正吉は、力いっぱい河童どもを相手に荒れ狂ったように相撲を取った。

 一方、家では父親の嘉右ェ門が夜中に目をさましてみると、隣りに寝ていたはずの正吉がいない。驚いてあちこち探したが正吉の姿はない。

しばらくして道ばたに正吉の下駄がぬぎ捨ててあるのを見つけた。 下駄の向いている方向をたどって行くと三隈川銭渕の川岸に出た。

見ると裸になった正吉が、一人で大あばれにあばれているではないか。
「こらっ正吉」と声をかけたが、父親の姿など眼中にない様子であばれまわっている。

嘉右ェ門は正吉をつかまえ、なだめすかしてやっと家に連れて帰った。そのことがあってからの正吉は、いつも宙の一点をみつめて、「さあ来い、そこだ、さあ来い。」と叫ぶのであった。

父親嘉右ェ門は、これはきっと河童と相撲を取ったからにちがいないと思い、近所の人たちと相談した。氏神さまのお守りをはったり、お祈りをしてもらったりしたが効きめはなかった。

ところが、或る人が、「河童の祟りには、名刀を側に置くが一番よい。」と教えてくれたので、村中を探し、名剣といわれる刀を集めて、正吉の枕元に置いた。それでも正吉についた河童は、ひるむ様子もなかった。

ところが、郷の義弘の銘のはいった脇差を持っている人があり、この脇差を借りてきて正吉の枕元に置いたところ、不恩議なことが起った。真夏だというのに正吉は布団を頭からかぷりガタガタとふるえだした。脇差しを持ち去るとまたもとのようにあばれまわる。

そこで度々脇差しを借りてきては正吉を鎮めていた。
 その頃、阿蘇山の僧、耶羅焔坊(やらえんぼう)という修験者の門人に渋江貞之丞という者がいて、河童を鎮めることにかけては当代随一という評判があった。嘉右ェ門はこの話を聞き、渋江貞之丞を訪れ、正吉についた河童をおとしてくれるよう頼んだ。

渋江貞之丞は早速竹田村にやって来た。そして正吉と差し向かい、呪文を唱え祈祷して、正吉についている河童を呼びだして間いてみると

「正吉のためにわしら河童の仲間が二匹もうち殺された。そのかたきを取るために正吉についていたのだ。」と言う。

嘉右ェ門は、渋江貞之丞を通じて、今後は死んだ河童の霊を弔うお祭りを必ず行うので、今回だけはどうか許してくれと哀願した。 それから毎年6月20日に申祭(さるまつり)と言って饅頭と鯖の頭を竹の串に刺して、お供えし祭った。
こうしてようやく河童の崇りを許してもらうことができたのである。

この時呼び出した河童の話で正吉にかかわった河童どもは日田に住む河童でなく、筑後の国の河童であるということが判った。 そして日田の河童は、石井大明神天台宗 豪潮律師(黒岩大石の梵字)仲冬吉辰の法力でみな封じこめられているので土地の人間に害をするということはないとのことであった。

ではどうして筑後の河童が何のために日田まで出て来たのかと尋ねたところ、次のような事実が判明した。
年に一度、阿蘇耶羅焔坊のもとヘ、九州全体の河童が集まって来るのである。そして一同揃って水神さまにご機嫌伺いすることになっているのだという。その時、筑後川の河童どもは、大頭目干一坊に従い、五月初めに筑後川から三隈川を上って阿蘇に行き、六月上旬には再び川を下って来るのだという。

 ちょうどその途中で正吉と河童たちが出会って相撲を取り、このような不幸な事件を引きおこしたのであった。
 またその昔、平安の頃、菅原道真公が、都を追われ筑紫に流された時、公は、河童どもにも和歌を教えられたという。そのお礼に人間には危害を加えぬことを約束したということである。



  河童の恋

 大分県の玖珠地方では、河童は人間に恋をし、山セコは牛馬などにいたずらをするという。
山セコは山の妖怪で地方によってはヤマタロウという。
河童は、川で一人裸になって水浴している若い娘を見ると、魅入って恋におちてしまうのである。

この恋におちいるのは勿論若い河童であろう。
河童に恋され魅入られた二十歳代の女は、不思議と急に淫乱な女になる。
若い男と見れば誰彼と見境なく、色気違いの状態になってしまうのである

そして恋をした当の河童は、毎晩のように障子のすみから女の部屋に遊びに来る。
河童が、女の部屋にしのびこんで来る姿は、家族の者にも誰にも見えない。
ただ障子紙がぬらされて穴があき、帰った後は、蒲団がびしょびしょにぬれているので、それで河童が来たのだということがわかるのである。
また女の方からも、しばしば河童のいる川に会いにでかける。
そして川の中に裾をまくりあげて腰までつかり、河童との交りをするそうである。

このような河童との交りが続いている中に、若い娘は身ごもってしまう。
人間の場合だと子は十ヶ月で生まれるが、河童の子は三ヶ月で生まれてくるのである。 
一腹に双生児どころでない。  
十二匹の河童の子が生れ、すぐに川に入り数十年生きるという。

女河童も、人間の男にほれることがよくある。
そしてこの女河童にほれられた男が普通の女と交わると、不具な子が生まれる。
長い手足の指の間に水かきのある子である。
このような河童の申し子は、一年とたたないうちに死んでしまうという。

河童に恋され魅せられた女のことを河童憑きといい、祈祷してもらうと治るのだそうだ。
この場合、河童憑きの女を荒縄で柱にしばりつけたうえで祈祷師に祈祷を頼む。
その際は、決してそのそばにぬれ手拭などを置いてはいけない。
水気のあるものをその頭の上にのせようものなら、女はたちまちのうちに大力を得て、荒縄も切ってしまうからである。
祈祷師による河童おとしの祈祷は、七日七晩の間続けられるが、これには二つの方法がある。

その一つは、カネを本人に飲ませる方法である。
このカネというのは、明治の初め頃まで、女がおはぐろといって歯を真っ黒くそめた鉄漿のことである。
そのカネを飲ませると女は一旦気絶して倒れるがしばらくすると、憑いていた河童が女の体内から逃げていき女はもとに戻ることができる。

もう一つの方法は、大工の棟梁が日頃使っている墨壺の糸を伸ばして川に渡し、河童が近よれないようにする方法である



 岐部城の河童

 大分県玖珠郡九重町に、昔、岐部城という城があった。
小高い丘で今では公園となり人びとのいこいの場所となっている。

この岐部城に住む殿様は、川岸の舟石というところの渕に住む河童を大切にしていて、毎日お城の女中に、河童への供物を持って行かせていた。
河童を大切にすると、家が栄えるという伝説がある。
殿様はそのような伝説を信じていられたのかも知れない。

殿様のいいつけで、舟石の渕まで毎日毎日お供え物を持って行かされる女中は、冬ともなれば寒さが厳しい上に殿様が、朝夕と日に二度も行けと言われるのでたまったものではなかった。

そんな或る寒い日の夕方のことである。
冷たい北風が女中の顔を容赦なく吹きつける。
ちょうどそこに猿まわしの男が通りかかった。
女中はつい怠け心を起し、猿まわしに御馳走を供えることを頼んだ。
猿まわしは、この御馳走は自分が食べてやろうと思い快く承知して連れている猿をけしかけて、河童と戦わした。

舟石の河童は、年老いてなまずに化けていた。
なまずに化けた河童にお供え物をすると、必ずそのお礼に川魚を持ってくると言われている。
猿まわしの猿は爪をむいて人のいい年老いたなまず河童に飛びかかっていった。
年老いた舟石のなまず河童は、とうとう猿に負けてしまった。
ところが負けた年老いた河童には、不思議な神通力があったのである。
怒った河童は、女中と猿まわしを世にもみにくい顔にして、仕返した。
二人は、びっくりしてオロオロしながら、年老いたなまず河童にお詫びをしたが、なかなか許してくれなかった。

「今からこの河童さまの言うことをよく聞くのじやよいか」
「わしの生命もそう長くはなかろう、このわしを岐部城の城内の堀に住まわしてくれ。」
「わしのやしろをつくり、毎年毎年、今日をなまず権現の日としてお祭りするのじや。」
と河童は言った。

権現さまとは、菩薩さまが姿を変えて神さまになられた姿を言うということである。
年老いたなまず河童は、神さまになりたかったのである。
二人はこのことを殿さまにお願いして、河童の願いを叶えてやった。
城内に社をつくり、なまず権現としてお祭りしたということである。


参考文献
豊後日田の昔ばなし
   NTT日田電報電話局編集委員会/編
日田市のかっぱ踊り
   中島市三郎/著
九州の河童
    純真女子短期大学国文科/編