広瀬 月下の鮎句集


 
広瀬 月化(ひろせげっか)俳人

 通称,平八,諱は貞高.俳号は桃潮,のち静斎,さらには月化また秋風庵と称した。

延享4年(1747)生,文政5年(1822)1月30日没78才墓は丸の内町大超寺.法名 無心即浄居士月下は日田郡豆田魚町(元豆田町)の商家,博多屋三世広瀬久兵衛の長男に生まれた。

広瀬家はもと筑前福岡黒田藩の武士の出で,延宝(1673)の頃五左衛門が日田に来て農作と商業を始めた.その孫が三世久兵衛で家業を拡張し代官所へ出入りするようになった。

月下も18才の頃代官所に出て,時の代官揖斐十太夫(いびじゅうだゆう)に目をかけられ近侍の一人に加えられ仲の姓を賜る,明和6年隈の高倉氏に替わって竹田,杵築,府内の御用達を命じられ後には蓮池,対馬の御用も勤める様になった。

安永元年(1772)近侍をやめ家督を継いで家業に専念,大火にあった家を建てたりしている.以後10年家業に励んだが,天明元年(1781)弟,三郎右衛門に家を譲って堀田村(現淡窓町)に新居を造って夫妻で移り,かねて志した風雅の道に入って,俳諧の宗匠として暮らす事にした,これが秋風庵の創始である。

父久兵衛は号を桃之といい,又代官も楽水と号していたことから,月化の俳才を好んで近侍に登用したとおもわれる。

当時の俳壇は芭蕉とその直門の時代を過ぎて混迷期にあたる.日田でも,朱拙,野紅の跡を受ける俊才がなく,豆田の宝井其角門の半時庵松木淡淡,竹田の閣務支考流の美濃派が主流となっていた。
その中で,豆田に西国の甥の鳳岡(ほうこう),手島鳳水,岡田露白,揖斐楽水,千原故暁,武内梅夫,佐藤文泉,竹田に波多野西風,らがおり,日田に来遊する俳人も多く,佳芳,蘭尺,八千坊舎ぼつ等があり,淡淡門で讃岐 の人不識庵節山が大鶴中村の雪舟の築庭といわれる跡に草庵を営んだのもこの頃である。

月化は始め佳芳,舎ぼつの門に弟桃秋と入門したが,其角の「五元集」に共鳴し,其角門下の淡淡に就こうと考えたが淡淡が没したので,その門人の松木竿秋に教えを受けた。

20才の時代官に随行して東上の折り竿秋にあったが、その時竿秋は月化を評して,けふここに 夏しらぬ日の 机かな  と詠んだ後,江戸の雪中庵大島寥太に私淑して,静斎の名で,雪中庵一世服部嵐雪の自書句を寥太に贈ったら,返礼に芭蕉の「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」の句の自画賛と,杉山杉風作という芭蕉小像と,寥太の「秋風庵の記」を贈られた.月化は大変喜んで新居を秋風庵と名付けた.

 この頃から月化は淡淡流を脱して芭蕉俳風にいる.以後秋風庵の名が高まり,全国に聞こえる様になり,八千坊夷柏,松夢坊といった行脚俳人も九州に至れば月下を訪れた.月下の著:旅行記「東遊記行」「秋風庵記」「はいかい一枚請文」「筍を盗れし辞」 「隈川年魚(あゆ)の辞」等又月下は淡窓の養育に携わって多大な影響を及ぼしている。

参考文献
秋風庵月化集
     1926年 広瀬貞治/編