大山川と玖珠川にはさまれた五馬台地が灌漑用水を求める願いは強く、大正期に入って長い願いの実現に女子畑台地区が出発した。
ここに戦時下に着工し、昭和30年に完成した女子畑台地区民の願いと開田の歴央をたどって見よう。

 畑作農業を中心とする女子畑台地区民が、灌漑用水を求める願いは、いまにはじまったことでなく、数代にわたる住民の熱望であり話題にもなったが、夢物語とその場限りで消え去っていた。

 しかし同地下里の農家小関十造が、サイホンを利用すればこの台地に水を流すことはできると考え、目田郡役所に調査を依頼していたのが、昭和三年(1928年)かなえられ、農林省から三名の技術員が派遣されて約二カ月にわたって測量調査した結果、五馬村大字出口の芋作にある湧水に眼をつけ、これを溜池として水源にし、合田、女子畑地域に灌漑する計画をしたが、溜池の水量の点が夏期の渇水期に耐えるかどうかが問題となって中止された。

 次に、水源を玖珠郡境を流れている山浦川の上流に求めて、大分県へ調査を依頼し、測量調査の結果大鳥花香の台地を加えて一五○町歩の灌漑計画をたてて耕地整理組合設立の準備を進めたが、大鳥、花香地区の意見がまとまらず、女子畑地域も上流地域を無理に加入させた後の、下流地域との水利用問題を懸念し、また山浦川下流杉河内の水田耕作者との水利権の問題もあって再び中止された。

 それではと関係区を女子畑だけにとどめ、水源を荒山と赤岩川に求めて調査を再度大分県に依頼したところ、県側も中止の前例もあることとて承諾をためらったが、熱意に動かされて測量調査の結果、受益面積四○町歩、組合員一二三名、事業費一八七、二八五円は日本勧業銀行から長期融資を受けることにして、昭和七年(1932年)に耕地整理組合の設立と水利権設定の認可を得て、昭和八年七月一三日第一回の総会を開いた。

が、席上突然異議を申したてる者があり、説得に努めたが議場騒然となって流会となり、一○年に近い労苦も一応水泡に帰する結果となった。

 その後事業の再計画をくわだてたが、経済界の不況、朝鮮、台湾からの米の移入により米価の下落もあって時の政府は米作の減反さえとなえ、開墾事業の援助を中止したし、また、隣村五馬村塚田の開田事業も難航していたから、女子畑開田も見送らざるを得なくなって、従来の畑作をつづける一方養蚕の振興を図り、繭の値が下って養蚕が下火になると蔬菜園芸にとりくみ、西瓜、白菜等をつくって日田の青果市場に出荷しながら、水の少ない苦しい畑作農業のなかで技術を磨いて農業にとりくんでいた。

 昭和一二年(1937年)の日華事変は国内状勢を準戦峙体制とし、昭和一四年には米国から日米通商案約の廃棄を受け、英国との会談は決裂し、日本は経済封鎖を受け、食料の不足は日々深刻となり、政府は対策として農地開発営団をつくって山林原野の開墾をはじめた。

 当時、中川村助役をしていた小関十造の長男磯武は、この機をとらえ、父十造と共に東京に居住する弟貢と連絡をはかり、中川村当局の協力の下に農林省をはじめ関係方面の理解と協力を得ることにつとめた結果、昭和一六年(1941年)十一月農林省より係員が派遣され実地調査をしたが「経済効率」の点で難色を示したけれど、過去の一件書類を見、責任者の話を聞き、時局便乗の開田でないことを見てとり、開畑三○町、開田七○町を実施することとし農地開発営団熊本事業所が工事に当たることとなった。

 事業費の負担内容は、関係農地を時価の賃貸価格で買いあげ、工事終了後付近の相似水田の賃貸価格で売渡すこととしたが、反当約五百円の負担となっていた。

 大東亜戦争に突入して約二年、昭和一八年(1943年)一○月一○日起工式が行なわれ、日田市の石倉組の手で工事は着手され戦時下のの開田工事が始められた。

 経費はかさみ負担金は増額を迫られ窮状に落ち入ったが、関係者の理解によって緊急開拓法が週用されて全額国庫負担で継続され、一期工事、二期工事がようやく終ったとき、
昭和二○年(1945年)八月一五日終戦となり、占領軍の命令で農地開発営団は閉鎖され、工事は約半分を残したまま中止となったが、関係者の努力は報いられ、一年後には全額国庫支出の大分県営工事として実施された。
昭和二四年(1949年)四月一三日第三回目の通水試験に成功して、この台地に待望の水がこんこんと流れ込み、関係者を狂喜させたと言う。

 昭和二六年には耕地整理組合を土地改長区と改め、昭和三〇年(1955年)三月漸く全線工事を終わり、事業に着手して一三年、事業を企画して三○年、社会情勢の変動と戦いながら、

総工費(六千二百万円(時価見積り三億三千万円)を投資した女子畑開田工事の落成式は昭和三一年一〇月一五日、大分県知事をはじめ農林省その他関係機関職員列席し、感激と喜びの中に台小学校で地元民の手によって行われた。

故小関十造 昭和三三年 黄綬褒章受章

故小関磯武 昭和四〇年 黄綬褒章受章

写真(上)
小学校校舎前の、巨大な自然石のみ積み重ねられた、耕地整理記念碑

写真(下)
並んで建立された、小関十造爺の立像と、小関磯武爺の顕彰碑