天瀬町の歴史 !!

 五馬くにち 
出口くにち楽
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本城くにち楽
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平成8年の出口くにち楽
五馬地方に残る四社の秋祭りは百数十年の伝統を誇る。

* 本城くにち楽(町田楽の系統)県指定無形文化財
金凝神社の十月二十・二十一日の秋祭りに奉納され、天狗が先導し一列縦隊の杖が続き、笛、太鼓、コモラシが後に続く。
面かぶりは大黒、蛭子、福禄寿、毘沙門からなる。

* 塚田くにち
阿蘇神社の十月二十二・二十三日の秋祭りは、他の三社のくにち楽と違い芝居興行が行はれていたが、最近は他の地域も芝居興行が行はれ特長がなくなってしまった。

* 出口くにち楽(一組は町田楽の系統・二組は大野楽の系統)町指定無形文化財
老松神社の秋祭り、十月二十四・五日に奉納され、一組と二組が毎年交互に行う。
天狗の先導で薙刀四人杖七結び拍子木四人笛、四人太鼓、四人面かぶり、四人青鬼赤鬼からなり,神興御伴がこれに続く。
二組の楽は、薙刀を女の子 (初潮があると参加できない)が持って参加するのが特長で、他は一組と同じである。

* 五馬市くにち楽(町田楽の系統)町指定無形文化財
玉来神社の秋祭り、十月二十六・七日に奉納される、陽気なハヤシにのって天狗、コモラシ(子ガッパ)、大黒、福禄寿などが練り歩き、全員によるみだれ杖で最高潮を向かえる。
 義民穴井六郎衛門 
大字馬原宇本村部落
旧馬原村庄屋旧宅にして宅跡中央に同村有忘により大なる記念碑建てられて、庭の隅には往時を偲ばせるつつじの古株群と桜が今も美しく花を咲かせている。

享保十九年より宝歴三年の二十年間、岡田庄大夫が西国郡代として政務を執り、此の間に起きた事件で徳川将軍吉宗の時代であった。義民が天領内六百三十人の百姓に代り重税に喘ぐ民の窮状と悪政を幕府に直訴したもので幕府は調査して取り上げたが、結果は悲惨であった。

即ち、 圧屋  穴井六郎衛門  次男要助  死罪獄門
        草三郎組頭惣次       死罪打首
       虎丸組頭治右衛門  田畑取上豊後一国払
外に代表血判者は伊作、弥助、小作、勘作、清兵衛、長右衛門の七名であった。一味与当百七十三名、
重追放、軽追放、所払、過料と夫々処分され、義民は浄明寺川原に消えた。

 長三洲 
大字馬原字矢瀬
 漢学者梅外の長男として天保四年九月二三目誕生、名は莢、宇は世章、秋史、幼名は富太郎又は光太郎、明冶二十八年一二月十九日、六十三才で没した。

十五まで父に学び、淡窓の門に入る。後招かれて広瀬旭窓の都講として大阪に遊学、天下の諸名流と交る。父梅外と共に尊王攘夷の志を持ち、一時奇兵隊に入り長州藩に迎えられた。
木戸孝允に重用せられ、その奏議の多くは三洲の草案になるといわれた。又学務局長兼侍書として現代教育制度の基礎を作りその普及に努めた。詩人、書家としても高名で明治のご三筆とまで称せられ著書も数多い。
晩年東宮待書として最後まで重要せられた。

馬原小学校の西南隅に記念碑が建てられているが、宅地跡はそこより校舎寄という。

 女子畑開田 
 日本国民の食料として生産してきた
稲を減反する現在ですが、戦中、戦後
と約30年に渡り灌漑用水を求めた、
私の先人達の血のにじむ苦労と努力
の開田の歴史をたどった女子畑井路
の生い立ちです。

女子畑開田の歴史




参考文献
あぜみちの花
   小関磯武/著
 日田郡(ひたのこほり)久津媛伝説 
 *日田郡(ひたのこほり)..豊後風土記より

昔者,纏向日代宮御宇大足彦天皇,球磨贈於を征伐て凱旋りましし時,筑後の国の生葉の行宮を発ちて,此の郡に幸でまししに,神有り,名を久津媛といふ
人と化為りて,参迎へ,国の消息を弁へ申しき.斯に因りて久津媛郡といひき.今日田郡と謂ふは訛れるなり

むかし,まきむくの ひしろのみやに あめのした しろしめしし おおたらしひこのすめらみこと,くまそお をうちて, かちかえりまししとき,つくしのみちのしり のくにの いくはの かりみやを たちて,この こほりに いでまししに,かみあり,なを ひさづひめ といふ. 
ひととなりて,まいむかへ,くにの ありさまを  わきまへ もうしき.これによりて ひさずひめのこほり といひき.いま ひたのこほり と いふは よこなまれるなり.
 五馬山(いつまやま)
 昔者,此の山に土蜘蛛有り,名を五馬媛と日ひき.
因りて五馬山と日ふ飛鳥浄原宮御宇天皇の御世,戊寅の年に,大に地震有りて,山岡裂け崩え,此の山の一つの峡崩落ちて,温泉所々より出でたり,湯の気熾てあつく,飯を炊ぐに早く熟る.
但,一所の湯は,其の穴,井に似て,口の経丈余り,深浅を知ること無し.
水の色は紺の如く,常に流れず,人の声を聞けば,驚き慍りて泥を騰ぐること一丈余り許りなり.
今,慍湯と謂ふは是なり.

むかし,このやまにつちぐもあり,なをいつまひめといひき.
よりていつまやまといふ.あすかきよみがはらにあめのしたしろしめししすめらみことのおんよ,つちのえとらのとしに,おおいにないふりて,やまをかさけくえ,このやまのひとつのたにくえおちて,いでゆところどころよりいでたり,ゆのきさかりてあつく,いひをかしぐにはやくなる.
ただ,ひとところのゆは,このあな,いににて,くちのわたりひとつえあまり,ふかさをしることなし.
みずのいろはあいのごとく,つねにながれず,ひとのこえきけば,おどろきいかりてひぢをあぐることひとつえあまりばかりなり.
いま,いかりゆといふはこれな

昔,この山に土蜘蛛(未開地人...朝廷の威光の及ばない種族か?)がいた名前を五馬媛(いつまひめ)といったので五馬山と呼ぶようになった.
天武天皇の頃の戊寅の年に大地震があり,大規模な山崩れ等が起きて所々から大変温度の高い温泉が吹き出した.
中には一ケ所井戸の様な穴があいて紺色の水をした間欠温泉があらわれた.それをいかり湯と呼んだ.

 注:この温泉が天瀬温泉の湯山,桜竹,赤岩等と思われるが,間欠温泉の場所は特定できない.

参考文献:
「おおいた文庫 1 豊後風土記」 著者:佐藤 四信 
発行(株)アドバンス大分 ,S55,7,19